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苓北から下田へ [ちょっと遠出]

富岡から下田に向かって海岸線を走ると

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山が海に落ち込む際にへばりつくように建つ祠がありました。

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今日は風が強く波頭が白く散り


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東シナ海から風をまともに受ける鬼海ヶ浦では

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空を舞うトンビもまるで木の葉のように揺れていました

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少し山間に入ると、目指す窯元がありました。有田に次ぐ白磁の歴史は17世紀に遡ります。

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湖畔の木々もようやく色付き

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深く切り立った山に囲まれた棚田も冬支度

海に囲まれた天草ですが、海岸線から一歩入るとこんもりとした山に包まれた里山の風景が続きます。

海の幸 [ちょっと遠出]

トンビの鳴き声と

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ポンポンという小舟の音が響き渡る朝の漁港

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防波堤の先で凪ぎの海に糸を垂れていた親爺さんは

「たくさん釣っても、よう捌き切らんとですもんね」といって、クロ(グレ)が数匹入った小さな魚籠を下げて竿を収めた。

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魚屋さんの店先に並ぶまばゆいばかりのサヨリ

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数人が座れば一杯になる小さなお店で食べる

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地場の魚や

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この時期旬の甲貝。アワビのような食感を生かすように、この貝の繊維を横に薄く捌く板さんも、今では少なくなりました。

たまたま席を並べた客が、カミさんの幼馴染みのご家族などということが起きるのも、故郷の小さな店だからこそ。

気温がグンと下がるこの時期も、海は豊かな幸に恵まれています。

天草にて

慰霊の光 [ちょっと遠出]

恒例となった年の瀬の集まり

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今年はギタロンも復活して、幕開け曲の“El Amanecer (夜明け)”も、年と共に更に味わいが増してきました。

長い宴の後は光の祭典『ルミナリエ』へ。

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三宮のセンタープラザを通り抜け、

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元町駅前から延々と流れる人の波に押されて、幾度となく街角を曲がると

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暗闇の中に突然光のアーチが現れました。

あれから16年が経ち、再び多くの犠牲が払われました。

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「安らかに」と祈るばかりです。



冬の京都 [ちょっと遠出]

京都に着いたのは

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街の明かりが目立ち始める日暮れ時


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五条坂を音羽山まで登りつめて仁王門を入ると、


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浮かび上がる紅葉と清水の舞台


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成就院前の池面にも紅葉が映えます

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二寧坂の石畳を東大路に下り、今日の泊りは七条

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玄関脇の小さな洋室から鰻の寝床のように部屋が続く極々普通の一軒家を借りました。二人旅には十分すぎる広さです。

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翌朝、散歩がてらに近くの豊国神社にお参りし、

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その脚で三十三間堂へ。千一体の観音菩薩が静かに佇む姿には心が安らぎます。

バスで九条に下り東福寺に着くと

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境内を埋め尽くす紅葉を愛でる人で満ち溢れていましたが、

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四周に禅宗の庭を配した方丈だけは、人影もまばらで静かな時が過ぎます。

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北山の麓に建つ鹿苑寺の参道も鮮やかな紅葉に彩られ

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金閣が湖面に美しい姿を映し出していました。

今年は例年になく紅葉が遅れ、立ち寄ったいくつかの寺院で折良く美しい庭を観賞することができました。

倉敷 [ちょっと遠出]

駅前の中央通りから一歩裏道に入ると、

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そこにはかつて商業の中心地として栄えた証としての蔵が建ち並び、

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運河の周りはまるで時を超えたかのような空間です

兼ねてから訪れたかった大原美術館はそんな町の一角にありました。西欧の印象派や日本の近代絵画とともに、河井寛次郎、浜田庄司の陶芸や、芹沢銈介の斬新なデザインの染色に、時の過ぎるのを忘れて思わず見入ってしまいます。

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中庭から見る工芸館

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歩き疲れてひと休み

倉敷にて

宮島 [ちょっと遠出]

平家が守り神として厳島神社を祀る前から島自体が神の島として信仰されていた宮島、ここを訪れるのは学生時代以来です

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宮島口の桟橋からフェリーに乗ると10分ほどで着きました

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平家一門が繁栄を願って法華経、阿弥陀経、般若心経を奉納した厳島神社

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回廊を渡って枡形から望む大鳥居。神の島ゆえに海上に建てられた寝殿造りの御社は、潮の満ち干でその姿を大きく変えます。

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正殿前では古武道が奉納されていました

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神社裏手の高台にある大経堂は、豊臣秀吉が九州遠征の途上で厳島神社に参詣した縁で建てられましたが、秀吉の死によって未完のまま現在に至っています。

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別名「千畳閣」と言われる通り、大伽藍の広間には857枚の畳を敷くことが出来るそうです。

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弥山への登り道はまばゆいばかりの新緑、秋には見事な紅葉でしょう

三瀧寺 [ちょっと遠出]

久しぶりに遠出・・・西へ

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50余年の時を経てなお残る痛みに鎮魂の祈りを捧げた後、平和祈念の献水を汲む三瀧寺を訪れました。横川から可部線でひと駅の三滝で降り、急な坂道を20分ほど登ると、三滝山に切れ込む谷に抱かれた三瀧寺の参道登り口に着きます。

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新緑に映える朱塗りの多宝塔を頭上に見て

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一礼の後、鐘の余韻に合掌し


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「駒ヶ滝」「梵音の滝」「幽明の滝」から湧く靄の中で

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苔むしたおびただしい数の石像の間の山道を更に進むと


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岩肌に張りつく観音堂が現れました。

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思いもかけず怒りを表わにした木造が迎えるお堂を通り抜けた裏に

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居並ぶ石仏

爆心地から3km程しか離れていないにも拘らず、深い山陰に守られて観音堂や鐘楼、権現堂が今に残っています。

牛深ハイヤ [ちょっと遠出]

この1週間、カミさんの故郷天草へ里帰りしていました。

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毎年春のこの時期、「牛深ハイヤ祭り」が催されます。

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古くから漁業の基地として栄えた牛深で生まれた「牛深ハイヤ」は、阿波踊りや佐渡おけさなどの源流になったといわれています。

先ずはちゃんぽんで腹ごしらえを済ませ、待つことしばし

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目抜き通りの向こうから、

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軽快な足取りに乗せて

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「サッサヨイヨイ」

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色とりどりの衣装が

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三味や太鼓のリズムに乗って進みます。

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祝いの餅が舟の上から撒かれ

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柴又の人も

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元気溌剌の高校生も

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幼稚園児も

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眠たい幼子までも

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街中が一緒になって皆陽気に

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艶やかな足さばきに乗せて

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サッサヨイヨイ!

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同じ漁業を生業とする人たちには、東北の人たちの今の苦労が痛いほどわかるのです。

帰り道、山間の村には
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レンゲと

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菜の花が咲き乱れていました・・・もうすぐ田植えです

真壁の雛祭り [ちょっと遠出]

今日は筑波山を越えたお隣の町、真壁で開かれている雛祭りに出かけてきました。

後に赤穂藩主となった浅野家が、関ヶ原の合戦後に御陣屋として整備した真壁町中心部の上宿、下宿、新宿、仲町、高上(たかじょう)の五つの町区画にある商家を中心に、約200軒の家々が江戸、明治、昭和、平成の時代を通して、先祖代々大切に守ってきた雛人形を公開しています。

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それぞれの家の門口には、手作りの案内が貼られ

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築百年以上の家の内にお邪魔すると、土間に続く部屋いっぱいにお雛様が飾られていました。

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こちらは昭和初期の座り雛

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薬局、書店と続いたこの商家の二階には、昨年の十月に物置の中で偶然に見つけたという組人形が飾られていました。昭和16年の新聞で丁寧に包まれていたそうですから、戦禍を免れるため大切に保管していたのでしょう。

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旅館の玄関に飾られたものは、江戸時代後期のもの

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お米屋さんの店先には浄瑠璃の人形も


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江戸末期に呉服商を営んでいた商家では、お店に居たおばあさんが、大正時代に親戚のお爺さんが東京で集めたというブロマイド写真を見せてくれました。「東京じゃぁブロマイドを買うだけでなく、ついでに遊んできたようだよ」とのことですが・・・。

ボランティアの方のお世話になって街並みの説明をしていただきながらお雛様を鑑賞しましたが、戦国時代に城下町として建設され、江戸時代には木綿の流通で繁栄した真壁には、

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明治初期の商家や

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大正時代の建物が今も残っていて、


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家の合間を縫うトロッコの軌条に沿って、そのまま時代を遡るような感覚を覚える街です。


【真壁のひな祭り】

3月3日まで開催されています。詳しくは下記サイトを参照ください。

http://www.makabe-hina.com/



笠間 [ちょっと遠出]

小春日和のお天気に誘われて笠間へ

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焼きもの通りに面したかつら陶芸のギャラリーでは岡本芳久さんの作品展が開かれていました。

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織部風の緑が鮮やかな楽しい図柄の器が並ぶ中から大鉢を一品

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ゆっくりと見ている間にお腹がすいて、お昼は笠間稲荷裏の静かなお店で麦とろ

お腹が収まった所で、再び芸術の森の麓に並ぶいくつかのギャラリーへ。

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石岡の古民家を改装したギャラリー門は、中庭にヤマボウシを配した落ち着いた雰囲気の中で、額賀章夫さんの作陶展が開かれていました

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信楽の土をベースにした器は落ち着きます。

お土産は

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カミさんに利き酒をしてもらった地酒と


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蒸したてのくるみ饅頭

益子に比べるとコンパクトにまとまっている笠間ですが、焼き物を眺めているとあっという間に一日が過ぎました。

益子 [ちょっと遠出]

今日は陶芸の町益子へ出かけました。益子は近現代の日本を代表する陶芸家の一人である濱田庄司がイギリスから帰国して、田園での生活を望んで終生の住みかとして選んだ土地です。

最初に「益子参考館」へ行きました。益子陶芸の歴史や全体像が判るからです。美術館や陶芸館という名前ではなく参考館という少し変わった名前をしているのは、濱田庄司自らが世界各国から蒐集して製作の参考とした品々を展示しているからです。これらのほかにも自身の作品や、朋友である河井寛次郎、バーナード・リーチらの作品を展示しています。

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長屋門の入口をくぐると

110109_02.jpg大谷石造りの蔵に、西洋、オリエント、アジアからの蒐集品が展示されています。

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石造の立つ石段を登ると、長屋門を利用した濱田庄司館があり、

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ガラス障子越しに光の入る小さな部屋にルーシー・リーやバーナード・リーチの作品が展示されていました。

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そこから更に奥に進むと、上ん台(うえんだい)と呼ばれた濱田庄司の別邸があります。

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見事な鴨居が貫く古民家は、隣町から移築したものです。

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土壁にある奇妙な文様のことを尋ねると、塗り壁から蛾が孵化して飛び立った跡だと聞いて驚きました。父親が濱田庄司の職人だったという女性は、もう30年近くもこの建物の管理をしているそうですが、つい先日そのことを館長から聞かされて知ったそうです。古民家の壁から一斉に羽化した蛾が飛び立つ光景は恐ろしくも幻想的だったでしょう。

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日当りの良い窓辺でコーヒーを頂いてしばらく暖をとり

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工房や登り窯を見学して館を辞しました。

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益子の町外れの林の中にポツンと佇むレストランで昼食を頂き

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再び町中に戻ってお目当てのギャラリー「Starnet」と「G+00 (G plus two naughts)」へ立ち寄りました。どちらも斬新なデザインの新進作家の作品を取り扱っているお店です。

週末の三連休で人が多いかと心配しましたが、冷え込みの厳しいこの時期は来訪者も少なく、ゆっくりと陶芸作品を楽しむことが出来ました。

『益子参考館』 栃木県芳賀郡益子町益子3388 TEL 0285-72-5300
レストラン 『猫車』 栃木県芳賀郡益子町下大羽463 TEL 0285-72-4376
ギャラリー『Starnet』 益子町益子3278-1 TEL 0285-72-9661
ギャラリー『G+00』 益子町城内坂115 TEL 0285-72-0098

みかん狩り [ちょっと遠出]

今日は山仲間の先輩Kさんの実家へみかん狩りに出かけました。

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前日の夕刻に近くの温泉に集合して一献を傾け、宿のご主人夫妻とひとしきり「そば談義」。

翌日朝早くお邪魔して早速裏山へ。今年の夏の異常気象で農作物は数十年ぶりの不作で、みかんもその例外ではなく例年に比べて実が少ないと伺いましたが、

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それでも日当りの良い斜面に上がって行くと、樹齢50年以上のみかんの木はしっかりと実をつけていました。

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今日は曇りにも拘らず案外暖かく、背負籠にみかんをいっぱい入れて急斜面を運んでいると、汗ばむほどでした。

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こちらは柚子。樹高が高いので梯子をよじ登り、大きな棘に刺されながら頑張って取りました。
今宵は柚子湯でのんびりです。


英国式庭園 [ちょっと遠出]

今日はカミさんに誘われて、"Andy&Williams Botanic Garden" を訪れました。ここでは英国式庭園の様々な手法を見ることができます。

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ヘンリー蔦の絡まる煉瓦塀の門を入ると

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ダブコートガーデンのムクゲが満開でした。

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梅雨の時期に思い切り伸びたツゲは、成長が止まった今の時期に刈ると、綺麗に刈りそろえることができます。

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ルドベキアが黄色い花を咲かせるアーチをくぐり抜けると

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チューダー調の壁を地面に描いたようなハーブガーデンに出ました。

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水辺のアプローチを奥まで進むと

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常緑高木を配したコニファーが様々な緑を映し出していました。

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あずまやのベンチに座って反対側を見ると、ガーデナーがモネの絵画「水蓮」を意図したことが分かります。

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水辺のミソハギが色鮮やかです。

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ピーターラビットが出てきそうなキッチンガーデンや

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ヒョウモンが蜜を求めて飛び交う庭を、ゆっくり散策してカフェの二階に上がると

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窓から見える緑いっぱいの景色は、壁に飾られたたくさんの絵の中のひとつのように溶け込んでいました。

"Andy & Williams Botanic Garden"
群馬県太田市新田市野井町456-1 

大内宿 [ちょっと遠出]

会津の南

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人里離れた山間に

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江戸の名残りを残す宿場町がありました。

かつて会津若松と今市を結ぶ下野街道の宿場町であった「大内宿」。保存された数十軒の古民家が

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今は食事処や

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お土産屋さんになっています。

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山からの冷たい湧水が宿場町の中を流れて、涼しい風にのんびり・・・

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宿場町のはずれにある階段を

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子安観音まで上ると

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茅葺き屋根が並ぶ宿場の全貌が見渡せます。

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その中の一軒の軒先に

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近くの沢で採れた野生の水菜がありました。蕗のように薄赤い色をした茎が、塩で茹でると鮮やかな緑色に変わり、齧るとシャキシャキとした歯触りです。

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醤油の焼ける匂いにつられて栃餅やお団子を頂き

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カミさんが利き酒で気に入った地酒も忘れずに買いました。

戊辰戦争で戦場となった大内宿は、明治政府の誕生とともにその役割を終えました。


天草の陶磁器 [ちょっと遠出]

天草陶石を使った磁器の工房は、下島西海岸の高浜に集まっています。その中で昨年行きそびれた高浜の「久窯」に立ち寄りました。軽自動車がやっと通れる裏路地を進むと、

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せせらぎの傍に小さな看板が出された工房がありました。すべての工程を一人でこなすこの工房では、「天草の白磁は純粋過ぎて冷たい」という柿右衛門の言葉を打ち消すかのように、雑物の混じった陶石を使って味わいのある白を出そうと試みた作品がいくつか並んでいました。

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カミさんは葡萄の絵柄が気に入った小皿を求めました。

さて、話は変わってチャンポンです。本渡馬場のお婆さんが寄る歳なみで店をたたみ、本渡港の「みよし」も代替わりして味が変わってしまった今、天草で美味しいチャンポンは何処に行けば食べられるのかと思い、高浜の人に聞いて教えてもらったのがこのお店。

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ビン玉と珊瑚を吊るした軒先をくぐってお店に入ると、

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天井にバットマンが飛び、

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壁にはドイツ人のチャンポン評が掲げられていて、ちょっと変わった雰囲気です。

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しばらく待って出てきた透明で簡素な具のチャンポンは、魚の出汁がしっかりとして、目ウロコの素晴らしい味でした。

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お店を出ると、鏡のように凪いだ羊角湾が雨に煙っていました。日月潭の朝を思い出します。

イルカウォッチング [ちょっと遠出]

義父の七回忌で一年振りに天草へ。
折悪しく九州は大雨でしたが、この日だけは雨が上がり、法事を無事に済ませた後、皆で通詞島のイルカウォッチングに出かけました。

港から船に乗って沖合に出ると・・・

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いました、いました。たくさんの先客が。皆、期待に胸を膨らませて海面をじっと見ていると、

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あっ、いた! 子供の目が素早くイルカの背ビレを見つけました。

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まるで仲間が来たのを迎えるように、たくさんのイルカが思ったよりもずっと船の近くに寄って来ました。

今、イルカをテーマにした映画が議論を呼んでいますが、異文化を理解するのはお互いに容易いことではないと思います。





偕楽園 [ちょっと遠出]

今日は四月下旬の陽気とか

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梅はもう最盛期は過ぎてしまいましたが

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それでもまだ遅咲きの梅を目当てに

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大勢の人たちが集まって、楽しんでいました。

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一歩分け入った孟宗竹の林は、鮮やかな緑色。

(水戸『偕楽園』にて)


沖縄 (4) 琉球王朝 [ちょっと遠出]

首里城の南に、琉球王朝の歴代尚王とその親族を祀った御陵である「玉陵(タマウドゥン)」があります。琉球王朝は室町時代の1406年から七代64年続いた第一王統と、1470年から明治まで十九代410年続いた第二王統がありますが、この御陵は第二王統の尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために1501年に建てられました。

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御陵を囲む石壁の門を入ると、珊瑚の破片が敷き詰められた内郭の向こうに、石で積み上げられた建物が現れました。多くの観光客が次々に訪れる首里城に比べて、ここには静謐な空間があります。

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台湾の金門で見た「風獅爺」と、玉陵の上部にある石獅子(シーサー)。共に魔除けのシンボルですが、風貌もどこか似ています。

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石壁の近くにとっくり椰子のような大木がありました。太太が受付の女性に聞くと、「とっくり木綿(きわた)」という名前を教えてくれました。見た通り木の幹がとっくりの形をしています。木綿の由来は、この木の種子の中に真綿のように細かい繊維が詰まっているからです。この繊維は水をはじくので、昔は綿入袢纏のようにして船舶の救命胴衣として使われたのだと教えてくれました。

『戦禍』

沖縄に来るのは5度目だと書きました。しかし、これまで先の戦争を記した「ひめゆりの塔」や「平和祈念公園」を訪れることはありませんでした。仕事や行事で来たので時間に余裕がなかったということもありますが、先の大戦でのこの地の過酷な歴史を目の当たりにするのは、荷が重たかったからです。

しかし、今回は慰霊に訪れることにしました。

ひめゆりの塔

土産物屋が立ち並ぶ国道沿いの駐車場に、様々な色の大型観光バスが並び、団体客が次々に降りてきます。

入り口で生花を買いました。

   「寒いですねぇ」

と言うと、花を渡してくれた「おばぁ」は

   「去年の今頃は半袖だったさぁ」

と言いました。何せ今年は鹿児島の市街でも雪が積もっているのですから。

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慰霊碑の前に生花を捧げてから資料館に入りました。終戦の直前にここで犠牲になった生徒たちの数は二百数十人、全生徒の半数以上です。年齢は11歳から18歳。壁に貼られた少女たちの眼差しを受け、息苦しさを感じながら足を運びました。


平和祈念公園

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ここの慰霊碑「平和の礎」には、沖縄戦で命を失くした人たちの名前が刻まれています。アメリカ兵、日本兵、そして沖縄の人々・・・延々と続く名前を見ていると、その人たちや家族との別れが思い起こされて、戦争が強いた計り知れない犠牲に心が痛みます。

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海を見渡す丘の上には、都道府県ごとの慰霊塔があります。故郷から遥か遠く離れた地に送られた兵隊たちも、その大多数は生きて再び故郷に戻ることはありませんでした。


美しい自然の中で神々に祈る生活を送っていた沖縄の素朴な人たちが、兵士とともに最後まで戦うことを強いた教育とは何だったのか

ひとりひとりが大切な家族や生活を犠牲にして守るべき「お国」とは何だったのか

飢えと病と恐怖に慄きながら、「ガマ」と呼ばれる洞窟に身を寄せ合った人々は、何を心の拠り所としたのか

あと半年終戦の決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の人々は助かっていたのに、誰が何のために決断を遅らせたのか

・・・


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強い潮風に白い波頭を立てる海を見ていると、次から次へと沸いてくる疑問にやるせない思いがこみあげてきます。

ただただ冥福を祈るばかりです。

沖縄 (3) 沖縄料理と島唄 [ちょっと遠出]

今回の沖縄の旅、実は長男のお嫁さんがお里でお産をしたので、赤ちゃんの顔を見に行くのが大切な目的です。今月の22日は、子供が生まれて最初のムーチーの日(旧暦の12月8日)で、庭のサンニン(月桃)の葉でお餅を包んだカーサムーチーを作ってお祝いをしてくれるそうです。

さて、沖縄料理といえば、すぐに「ゴーヤチャンプルにソーキそば」を思いつきますが・・・
お嫁さんのお母さんが作ってくれる家庭料理が実に美味しいのです。

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島豆腐にアイゴの稚魚の塩辛を乗せた「スクガラス」、刻み昆布と豚の三枚肉、蒟蒻を炒めた「クーブイリチー」

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三枚肉と蒟蒻、シイタケなどを白みそで煮込んだお汁「イナムルチー」、それに「麩とチキナー(からし菜)のチャンプル」・・・

次々に運ばれる手料理に舌鼓を打ちました。


久高島の徳仁漁港では、

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地元の海ぶどうを器いっぱいに乗せたどんぶりや、獲れたての「イシミーバイ(ハタ)の魚汁」を頂き

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東風平(こちんだ)の小さな食堂ではフーチ葉(よもぎ)麺とテビチがたっぷり乗った「うちなあ(沖縄)そば」や「タコライス」など

たまたま入ったお店ですが、どれをとっても『おとがいが落ちまっせ!』といった美味しさです。


そして、沖縄に来たとなれば、何といっても『泡盛』と『島唄』は欠かせないでしょう

・・・と太太は言います。当然私も同意見です。

そこで二日目の晩、島唄を聴きながら泡盛が飲める居酒屋に出かけました。

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「ヒラヤーチ」や魚のすり身の揚げ団子「チキアギー」

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塩漬け三枚肉を焼いた「スーチカー」や「ミミガー」などを肴に一杯。こんな時には、飲みやすい「琉球王朝」や「久米仙」よりも、少し癖のある「菊の露」のクースー(古酒)なんかが良く合います。


     海の青さに 空の青

     南の風に 緑葉の

     芭蕉は情けに 手を招く

     常夏の国 我した島沖縄

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サンシンにのせて唄われるゆったりした節回しが哀愁を呼び、程良く酔いがまわります。

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そう、久高島でも感じたけれど、この通りだなぁ・・・

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そして、〆はやっぱり皆さんそろって元気よく「カチャーシー!」・・・ですね。

沖縄 (2) ニライカナイ [ちょっと遠出]

明け方四時、激しい風と窓を打つ雨の音で目が覚めました。本格的な冬型の気圧配置で寒波が来襲し、海は大荒れです。テレビのニュースでは沖縄本島周辺では4mの高波、五島列島の西では小型船が行方不明になったと言っています。風と波は次第に強くなり、この分では数日足止めを食うかと心配していると、唸る風の合間に「今日は朝の一便だけフェリーを運航します」というスピーカーの放送が聞こえました。

徳仁港に行くと、今日一本だけのフェリーを逃すまいと、島の人たちが三々五々集まって来ました。午前九時、いよいよ出港です。港の防波堤から外海に出ると、船はまともに荒波を受けてシーソーのように揺れだしました。

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波頭が強い風にちぎられ、時折ドーンと打ち付けられるように波の間に落ちたり、青黒い海が目の前にせり上がって来たりすると、さすがに身体が強張ります。

30分ほどで荒波を抜け、安座真の港に入ってようやくほっとしました。船酔いを避けるため朝ごはんを食べずに出たので、安心すると急にお腹が空き、丘の上のレストランに行って朝食を採ることにしました。

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レストラン「くるくま」のテラスからは、太平洋が一望に見渡せます。残念ながら雨雲が垂れこめていましたが、それでも時折雲の間から陽が透けると、目の前に広がるサンゴ礁の海がうっすらと碧色に染まります。


ヤハラヅカサと浜川御嶽

食事を済ませた後、玉城、百名の海岸に下りました。ここの沖合にあるヤハラヅカサとシオバナツカサのふたつの岩は、琉球の国の初めの神であるアマミキヨが降り立った場所といわれ、仮住まいしたとされる浜川御嶽とともに、琉球の聖地巡礼である東御廻い(アガリウマーイ)の拝所のひとつとなっています。

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浜川御嶽は鬱蒼と茂った樹林の中にありました。

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折り重なる岩の間から深い空洞を覗きこむと、奥の方に清らかな水の流れが光っていました。

岩の裏に回って海岸に下りると

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波に浸るヤハラヅカサに向かって、お祈りを捧げている人が居ました。御嶽信仰は長い時代を経て、今も日常生活の中に受け継がれています。

古来、現世と死後の世界をつなぐ聖域とされてきた沖縄の御嶽の多くは、人が容易に入ることを拒む海辺の洞窟や山の中にあります。台湾の離島を訪れると、同じような所に原住民の祈りの場が見られ、これらの信仰は南西の島々に共通して見ることができます。

十数年前、大峯山奥駈の最終日に、最後の靡(なびき)である熊野の西岸渡寺から、彼方に光る熊野灘が見えました。その先には観音浄土の補陀落(ポータラク)があるとされています。御嶽信仰で東方の海にあるとされるニライカナイと補陀落浄土・・・文化の源は違っても、そこに祖霊神や仏が居ます聖なる地があるという思いには相通じるものがあります。

スイスの言語学者ソシュールが言うように、文化が違うということは、ことばによって表現されている世界の本質も異なっているということで、ある文化が持つ「ことば」を異文化のことばで比喩的に語ろうとすることは危ういことかもしれません。しかしその一方で、違ったことばで表現されている異文化のルーツが、本質的には同じ世界から出てきたのではないかと考えたくなるのも素直な気持です。


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