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沖縄 (1)  神の降り立つ島 [ちょっと遠出]

沖縄を訪れるのは5度目です。美しい海、島唄、そして語り継がれる戦争の傷跡・・・様々な側面を持つこの島を、少し静かに巡ってみることにしました。

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天気予報ではシベリアから寒気団が南下しつつあると言われていましたが、出発の日はまだ穏やかで、機上から冠雪した富士山が望めました。

『神の降り立つ島』

沖縄には琉球固有の自然信仰として生まれ、琉球王朝の時代に国の宗教として祭政一致の行事が司られた信仰があり、祖先の霊や神が訪れる自然の聖域である「御嶽(うたき)」と呼ばれる場所を拝み処として神事を行い、異界・他界に平安や豊穣を祈ります。

琉球の信仰では最高神であるティダ(太陽)が昇る東方に重きが置かれ、殊に首里城から真東に当たる知念村(現在の南城市)には、斎場(セーファー)御嶽、久高島のフボー御嶽、藪薩(ヤブサチ)御嶽など、琉球開關に関わる七つの御嶽のうち、四つの聖地が集中しています。


斎場御嶽


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初めに斎場御嶽を訪れました。ガジュマルの気根が岩を覆う鬱蒼とした森の中を進むと、

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御嶽の一番西の端に寄満(ユインチ)があり、豊穣に満ちた場所として祀られています。

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寄満の反対の東の端に三庫理(サングーイ)があります。巨大な二つの鍾乳石が作る薄暗い空間をくぐりぬけると、

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木々の合間から波間に浮かぶ久高島が見えました。久高島はここから真東の位置に当たります。


久高島

知念の安座真港を午後三時半に出航する船に乗り、久高島の徳仁港に着きました。

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港近くに肩を寄せ合う小さな集落には人影もなく、今夜泊まる民宿を探しながら歩いていると、学校の校庭で工事をしているおじさんがいました。訪ねると、「あぁ、それならすぐそこさぁ」と教えてくれました。立派な建物が立っているので、

「島にはこんなにたくさん子供がいるの?」

と尋ねると、

「半分は留学生さぁ」

とのことでした。以前NHKのドラマ「瑠璃の島」で描かれことがありますが、廃校の危機に直面した過疎の島の小・中学校で、島の人が「里親」となって島外からの児童を里子として受け入れる「離島型山村留学」が行われています。


民宿に荷物を置いて、自転車で島を巡ることにしました。
港のすぐ近くにある「サバニ」という名のお店に自転車を借りに行きました。サバニとは木を刳りぬいた小さな舟という意味だそうです。

「6時半まで2時間貸してください」

と言うと、それまで釣りに来ていた若者と冗談を言っていた店の奥さんが、急に真顔になって日没の時刻を調べ、

「今は日が沈むのが5時半過ぎだから1時間にして。暗くなる前に絶対に帰ってきてくださいね。島の北と西は私たちも夜は近づかない所だから」

と、私たちに念を押しました。

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昔ながらの建物が残る集落を抜けると

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あとは一本道。島の南側の海岸に沿って走る砂の道は、海側にマングローブなどの木が生い茂っていて、時折林の合間から海岸に降りる道の先に細く砂浜が見えるだけで、潮騒と風に揺れる木々の音だけが聞こえます。

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雨上がりの水たまりに車輪を取られながら30分ほど行くと、いきなり視界が開けて島の先端「カベール岬」へ出ました。ここは琉球島の開祖神である阿摩美久(アマミキヨ)が降り立った聖地とされ、神々の意思は遠い海の彼方ニライカナイからこの島に来て、斎場御嶽に伝えられるとされています。南国特有の植物クバが生い茂った海岸に、打ちつける波の音だけが響いていました。

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しばらく海を見ていましたが、店のおばさんの言った言葉を思い出し、傾き始めた陽を追いかけるようにペダルをこぎました。

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珊瑚の削られた星砂の浜が続く南側と打って変わって、島の北側の海岸は、せり出した台地が急に海に落ち込む断崖が続きます。

島の中ほどにあるフボー(クボウ)ウタキは、イザイホーなどの神事が行われる琉球で最も霊威の高い聖地で、普段は誰も入ることが許されません。御嶽に続く道の入口あたりから中を少し覗いてみましたが、そう言われるまでもなく、今にもキジムナーやブナガヤが出てきそうな暗い空間で、自然に足が固まってしまいます。

徳仁港まで帰ってくると、サバニのお店のガラス戸には、「本日終了しました」の札が掛けてあり、裏に回ると開いた勝手口からサンシンの音が聞こえて来ました。

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港を見渡す丘の上では、数人のお年寄りが刻一刻と沈んで行く夕陽に染まる西の海を眺めていました。彼らの交わす言葉は全く分からず、まるでよその国に来たような錯覚にとらわれます。

朝日を拝み、小さな畑を耕し、サバニに乗ってその日の魚を採り、夕日に感謝する・・・そんな素朴な生活がそのまま残っている・・・久高島はまさに『神の降り立つ島』でした。

笠間 [ちょっと遠出]

今日は笠間にある陶芸美術館を訪れました。

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美術館に行く途中、腹ごしらえをしようと、看板を伝手につくば山麓の小さな蕎麦屋さんに行きましたが、お店の入り口で思わずビックリ。実はこのお店の名物はしし鍋だそうで、冬の間ご主人が近くの山で撃ったイノシシで鍋料理を出しているそうです。


井戸水が大鍋から溢れている厨房の向いに座ると、カウンター越しにほんのり甘酸っぱい香りがしてきました。太太が

「あっ、ゆずの香りだ」

と声を上げると、中にいたおばあさんがニコニコしながら、

「あんたたち、どっから来たべ。柚子持ってぐか?」

といいました。てっきり2,3個くれるのかと思って遠慮なく

「ください!」

と言うと、おばあさんは傍にいた娘さんに

「裏さ行ってちょっともって来な」

と言いました。しばらくすると娘さんはスーパーの手さげ袋いっぱいに詰めた柚子を

「はい」

といって手渡してくれました。

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余りの多さにこちらが恐縮していると、おばあさんは

「畑にいっぱいあるからさ、小さいっけんど味はいっしょだからな」

といって相変わらずニコニコしています。丁寧にお礼を言ってお店を出ました。


笠間は陶器で知られた町、信楽から笠間を経て益子にその系譜が受け継がれました。質の違う土を重ねて練り合わせ、焼き上げた表面に現れるひび割れで微妙な色合いと質感を醸し出す「練上げ」の技法を使った松井康成の作品や、釉薬の下から絵柄が湧き出る板谷波山作の「釉下彩」など興味深いものでした。

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美術館の一角にあるお店で、小さな箸置きが太太の目にとまりました。素朴でかわいらしい図柄が気に入ったようです。

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年の瀬で皆さん正月の準備に忙しいのか、館内は人もまばらで、お蔭でゆっくりと観賞することができました。外に出るとまだ4時前だというのに、太陽が山の端に傾いて冷え込んできました。

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梨狩りも終わってすっかり冬景色になった果樹園ですが、もう新芽が春を待っています。
今年も残すところあと数日です。色々なことがありましたが、来る年が皆さんにとって良い年でありますように。

姫路から大阪へ [ちょっと遠出]

昨日小豆島に泊らずに姫路に渡ったのは、大阪に行く前に姫路城をゆっくり見たかったからです。来年から5年の歳月をかけて大修復が行われる間は、建物の外側が足場ですっぽり覆われてしまうのです。

お城の見学は9時からなので、その前に内濠の周りを少し歩きました。

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南勢隠門から見る好古園の漆喰塀。お濠に沿って見事な曲線を描いています。

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お濠を挟んで姫山の原生林と向い合う紅葉の林には、落ち葉が絨毯のように敷き詰められていました。

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城の北東にある市立美術館。明治38年に竣工したこの建物は、大正初期まで陸軍の兵器庫として使われていました。赤レンガの外壁が見事です。

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大手門から橋を渡って三の丸広場に入ると、まさに白鷺城と呼ばれるその名前にふさわしく、大きく翼を広げたお城の全貌が現れました。

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1333年の赤松氏による築城開始から、1581年の秀吉による天守閣の完成まで、実に250年の歳月をかけて現在の姿が完成しました。高く積み上げられた石垣の上に聳え立つ天守閣は、とても木造建築とは思えない威容を誇っています。

姫路を出て大阪の曽根崎新地に向かいました。ギター部の同窓会の前にクラブの先輩Sさんが開いている喫茶店に立ち寄るためです。大学の最寄り駅からほど近い所にあった彼の下宿には、いつもクラブ仲間の誰かがいて、終電に間に合わなくなった連中や、通学の面倒くさくなった遠方の自宅通学者が四畳半の狭い部屋に、入れ替わり立ち替わり寝泊まりしていました。Sさんはそんなことを苦にする風でもなく、いつも皆を受け入れてくれました。お蔭で彼自身は卒業証書をもらわず終いでしたが、その責任の90%以上は私も含めて押しかけ続けた仲間のせいじゃないかと、少し後ろめたく思っています。

カランコロンとベルの鳴る扉を開けると、カウンターの中に懐かしい顔がありました。モーツァルトが死ぬほど好きで、店の名前につけてしまったSさんは、幾分白髪が目立つようになったものの、学生時代と変わらない柔和な笑顔で迎えてくれました。程よい時間をかけて淹れてくれた馥郁たる香りの珈琲が、しばらく会うことのなかった空白の時間を埋めてくれるかのようです。

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喫茶店を少し早めに出て、堂島川のほとりを散策しました。かつてここにあった大学の古い建物は取り壊されて立派なビルが立ち並び、悪臭を放っていた川も遊覧船が行き交うまでになりました。

さて、いよいよ宴の始まりです。当初は飲んで食べて旧交を温め、酔いの回ったところでテキトーに千鳥足のギターを奏でるだけだったこの会も、6年前に『Tango03』バンドを結成してからはライブハウスの風を呈し、今では食事つき演奏会のようになりました。もっとも曲が始まると、聴衆より演奏者の方が多いのですが・・・。

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バンドにはギターの他に

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チェロやギタロンも加わって、学生時代に比べると、皆の体重ばかりでなく演奏にも「重み」が増し、白髪や皺とともに円熟味が出てきました。

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竹山さんの弟子のまた弟子になり、ギターを太棹に持ち替えた先輩の演奏も、この会の定番になりました。多少酩酊気味の「じょんがら」にも、仲間からはやんやの喝采です。

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恒例の景品くじ引きの時間になって、幹事さんが「わざわざ東京から来てくれてありがとう」と、特別に無抽選で『堂島ロール』を手渡してくれました。実はこのケーキのことは知らなかったのですが、家に帰ると太太が、「さっきテレビでやっていた日本のスイーツ人気ランキングで第二位よ!」と教えてくれました。テレビを見ていたところに私が現物を持って現れたので、絶妙のタイミングに大喜びでした。

【お店の情報】

『あまでお』 大阪市北区曽根崎新地2-5-32 TEL 06-6345-0074
コーヒーの味は 太鼓判 です。

瀬戸内の旅(3) 小豆島 [ちょっと遠出]

昨晩は旧友と深夜まで盃を交わして、身体から酒が抜けきらないまま朝になってしまいました。朝早めの船に乗り、真っ青な空と穏やかな風に誘われて、甲板で瀬戸内の島々を眺めているうちに、1時間ほどで小豆島の土庄(とのしょう)港に着きました。

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小豆島を訪れるのは初めてです。この島に関して知っているのは、昔見た映画「二十四の瞳」の舞台となった島であることと、日本では数少ないオリーブの産地であることくらいです。そこで希望の場所をいくつかあげて案内をしてもらえるカスタムツアーガイドをお願いすることにしました。

港に着くと、この島を気に入って定住してしまったというガイドの青年R君が、にこやかに声をかけてきました。夕方の船で姫路に行くために時間が限られた今日の予定は、美しい棚田や伝統歌舞伎の舞台を訪れる『里山コース』を基本にして、オリーブ園と醤油の醸造元を加えてもらうということになりました。

笠ヶ瀧不動尊

初めに向かったのは、山岳霊場の笠ヶ瀧不動尊です。

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落ち葉の積もる長く急な石段を上り詰めると、

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その先には、かつて行場であったほぼ垂直の岩壁にへばりつくように本堂が建っていました。

里山風景

笠ヶ瀧でのお参りを済ませた後、山から一旦下って島の奥に入って行くと、肥土山と中山の集落があります。

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日本の名水百選にも選ばれた「湯舟の清水」が広がる山間には、山の上まで棚田が広がっています。場所の高低、日当たり、水はけ等々を皆が公平に分かち合うため、一戸が受け持つ小さな棚田はあちこちに分散していて効率が悪く、高齢化の影響も受けて作業のきつい高台から徐々に休耕田が広がっていくのを見るのは残念なことです。

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「歌舞伎の島」と呼ばれた小豆島には、かつては150近い舞台があったそうですが、今でも中山と肥土山の二つの集落では、春と秋の年二回、伝統の歌舞伎が催されています。裏方を含めて多くの人たちが協力しなければならない歌舞伎は、普段から皆が作業を協力する農村ならではの伝統文化のひとつです。

井上誠耕園

R君と一緒に美味しい讃岐うどんの昼食を済ませてから、オリーブを栽培している井上誠耕園を訪問しました。ここ数年、太太が通販で購入しているオリーブ関連製品を作っているのがどんな所なのか興味があったからです。

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日当たりのよい山の南斜面一杯にオリーブが植えられた農園を訪れると、農園の方が多忙な作業の合間を縫って、オリーブの栽培やオリーブオイルの製造について丁寧に説明をしてくれました。

完熟の実や、緑化状態の実を手摘みで収穫した酸化度が極度に低い搾りたてのエクセラバージンオイルは、りんごや草の香りのする驚きの味でした。

平井製麺

讃岐といえば当然うどんが有名ですが、日照時間が長く風の強い小豆島は、そうめんの産地としても有名です。

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R君一押しの平井製麺に伺いました。ご主人は会社勤めを辞めてそうめんに打ち込んで三十年になるそうです。うどんやそうめんは、小麦粉と塩、水が原料の素朴な食べ物ですが、それだけに気温、湿度など天候に敏感です。ご主人の話では二年ほど前からようやく麺と対話ができるようになったそうです。達人の境地ですね。

山六醤油

祖父母が小豆島で醤油製造業を営んでいたという高松の友人が、島に行ったら是非小さな樽元を訪ねてみてくださいと教えてくれました。山六醤油は130年来の杉の大樽を使って昔ながらの製法を踏襲する数少ない蔵元です。

醤油も酒や味噌と同じ寒仕込みですが、発酵と熟成のために夏を二回越さねばならず、気の長い仕事です。小規模で職人に徹していた四代目のお父さんは、自分の代で蔵をたたむ積りでいたそうですが、熱心な五代目がそれまでの都会での仕事を辞めて、何とか口説いて暖簾を下ろさずに続けたそうです。

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ご主人が、丁寧に中を案内してくれました。重い扉を開いて薄暗い蔵に入ると、芳醇でほんのり甘い熟成された醤油の香りが漂ってきます。杉樽の中からひょいと摘まんでくれた二年物のもろみは、何とも言えずまろやかで深い味わいでした。

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気さくでウィットに富んだ若旦那さん(五代目)。カメラを向けると選挙ポスターのようなポーズをとってくれました。

旅の楽しみは、その土地の歴史や、そこに住む人々の営みを知ることです。史実や履歴は書物で知ることができますが、今の人たちがそのような歴史を踏まえてどのように生きているのかを、短い旅の間に知るのは容易ではありません。そういった意味で今回のガイドツアーでは、一人旅ではできない貴重な体験をさせてもらいました。R君のように若い人たちが中心となって、島の内外に「顔の見えるネットワーク」を形成している様子を見ると、次の世代への頼もしさも感じました。

朝9時に小豆島に渡ってからあっという間の一日が過ぎて、船が福田港を出発する時刻になり、R君にお礼を言って、慌ただしく船に乗り込みました。

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瀬戸内に浮かぶ島々は花崗岩質で、秀吉が大阪城の石垣用に切り出した小豆島を始めとして、今なお石切り場が多く、島々は無残な姿を晒しています。

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沈む夕陽に映るシルエットからは分かりませんが、都会の発展のために原形を留めぬほどに石材を切り崩し、都会の廃棄物を受け入れた瀬戸内の島々を見た時、かつての美しい姿を知る人たちは何を感じるでしょうか。

今、高松、瀬戸内の島々を舞台に新しい芸術の試みが企画されています。このような活動から、人々のネットワークが広がり、新たな風が吹くことを期待しています。

瀬戸内国際芸術祭2010

小豆島のガイドツアー Dream Island  NPO法人
香川県小豆郡土庄町甲906-1 TEL 0879-62-5963
http://www.dreamisland.cc

井上誠耕園
香川県小豆郡小豆島町池田2352 TEL 0120-75-0223  
http://www.inoueseikoen.co.jp/

平井製麺
香川県小豆郡小豆島町西村甲1912 TEL 0879-82-1791

山六醤油
香川県小豆郡小豆島町安田甲1607 TEL 0879-82-0666  
http://yama-roku.net/

瀬戸内の旅(2) 崇徳院ゆかりの地 [ちょっと遠出]

今回の旅のもうひとつの目的は、崇徳院ゆかりの地を訪ねることです。保元の乱(1156年)で敗れた崇徳院は流罪に処され、瀬戸内の直島で三年の歳月を過ごした後、讃岐の雲井御所に移り、最後は鼓ヶ岡で崩ぜられました。

東京から500km以上も西に離れるといつもより日の出が遅く、薄暗闇の中で近くのお寺からドーン、ドーンと腹を突くような太鼓の音が聞こえてきました。宿のご主人は私の顔を見て、「生憎の雨ですねぇ」と申し訳なさそうに言いましたが、神社の雨は吉兆とも言います。

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カラカラと格子戸を開けて朝の町を通り抜け、街の南のはずれから霧雨に濡れた坂道を上ります。しばらく行くと道が左右に分かれ、どちらに行こうかと思案していると、犬を連れて散歩をしていた人が、「あぁ“天皇さん”ならこの先をもう少し行くと左手に屋根が見えますよ」と教えてくれました。地元の人は崇徳院の御陵のことを“天皇さん”と呼ぶようです。

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御陵は、はだかる様に立つ真新しい社殿の奥にあり、門の前には虚空を見上げる西行法師の像が置かれていました。

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クヌギの落ち葉と苔に覆われた長い石段を海岸まで下りてくると、

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墨を流したように凪いだ積浦(つむうら)の湾に出ました。怨念の日々を重ねた崇徳院は、この地に立って遥かに都を見遣ったのでしょうか。

昼前の船で直島を発ち、高松に戻って五色台の白峯寺に向かいました。

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白峯寺は四国八十八か所の第八十一番札所として、今も多くのお遍路さんが訪れています。

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崇徳院の御陵は勅額門をくぐった頓証寺殿の裏手にありますが、お堂の裏にひそやかに祀られた御陵に気付く人はそう多くありません。

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鼓ヶ岡のお社は、白峯寺から山を南に越えた讃岐府中にあります。崇徳院は雲井御所から鼓ヶ岡に移られ、6年の歳月を過ごされた後崩ぜられました。

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雨月物語の冒頭には「西行の旅の一夜に現れた崇徳院が、“ことごとく海に葬りつくす”と呪詛した平家一門が壇ノ浦で海に消えた後、ようやく崇徳院の霊は讃岐を訪れる誰もが幣帛(へいはく)を捧げて参詣する神となった。」と記されています。800年以上の時が流れた今も、四国が祈りの地であることに変わりはありません。

瀬戸内の旅(1) 直島 [ちょっと遠出]

久方ぶりに学生時代のクラブ仲間の集いに参加することになりました。折角関西に行くので、その前に瀬戸内まで足を伸ばすことにしました。旧来の友と会うために東京から高松に飛び、そこから直島、小豆島をたどって姫路に渡り、大阪に向かいました。

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快晴無風の好天に恵まれて、高松港からの船のデッキは、師走だというのにうららの陽気です。

「地中美術館」は、敷地内の建物・景観を含めたすべてが作品なので、写真撮影をすることができません。デジカメを持つようになってから写真を撮ることに慣れてしまって、目にしたものをじっくりと心に焼き付けることが不得手になったように思います。

音楽そのものを言葉で説明することができないように、造形を言葉で語ろうとするのはむなしい試みですが、これまでにない新鮮な印象を受けたので少し触れてみましょう。

地中美術館の中にはモネの「睡蓮」が、この作品のために設計された部屋に置かれています。地上から導かれた柔らかい自然光に包まれた睡蓮は、これまでに見た睡蓮とは全く違った印象を受けました。安藤忠雄の設計による直線を基調とした建物の中にあって、床や壁の境界が感じられない空間に置かれた5枚の絵は、まるで空中に漂っているかのような錯覚にとらわれます。

家プロジェクト

今回の旅の目的のひとつは、杉本博司がプロデュースした「護王神社」を訪れることです。

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陽が傾きかけて薄暗さの増した三輪途道の石段を上って

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八幡神社を通りぬけると、

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海を望む丘の上にそのお社はひっそりと佇んでいました。

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後の世の人が威厳を求めた荘厳な建造物に比べて、無駄な部分を極限までそぎ落とした細身のお社は、「神の降り立つところ」としての本来の姿に戻ったようです。

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地下の石室を出ると、木々の間から薄紅色に染まる瀬戸内の海が開けました。

足利 [ちょっと遠出]

昨晩は旧暦の中秋節、台湾のお友達は丁度台風が来て月が見えないというので、運よく雲間から顔を覗かせた満月をカメラに収めて送りました。

さて、今朝起きるとお天気が良かったので、何となく出かけたい気分です。遠出するにはちょっと寝坊をしていたので・・・・足利に出かけることにしました。

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鑁阿(ばんな)寺は足利一門の氏寺で、足利氏ニ代目の義兼が建久7 (1196) 年に持仏堂を建てて、大日如来を祭ったのが始まりです。今日はお宮参りの家族がひきも切らずに訪れていました。

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願い事も時とともに世相を反映して・・・


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足利学校はザビエルが「日本で最も有名な大学」として紹介しましたが、その創建は奈良時代にまで遡ると言われる日本最古の学校です。学生は入学後は僧として勉学に励み、卒業して再び還俗するという規律正しい生活を併せ持っていました。

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方丈の広縁に座ると、静かな庭の佇まいが心を落ち着かせてくれます。

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徳川四代将軍家綱の時に造営された孔子廟。現在も論語の勉強会として命脈が受け継がれています。

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足利は桐生と並んで織物の産地です。まちなか遊学館に展示されている織機「八丁撚糸機」は、昭和50年ごろまで実際に使われていたものです。

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かつて水車を動力としてこの織機を使ったという職人さんが、その構造を丁寧に説明してくれました。昔は大工さんのような職人さんが普通の木やブリキの缶に使われているような金属板を使ってこの機械を作ったそうですが、糸を撚(よ)る細工の工夫には目を見張るものがあります。1分間に3000回転以上の強い撚りをかけた紬糸を使った織物は、今の機械では決して出すことのできない風合いを持っているそうです。

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遊学館から北仲通りを西に向かうと、織物の神様を祀った織姫神社があります。

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足尾山塊の南端に位置する社の境内からは、渡良瀬川の流域に広がる足利の街を足下に、遠く関東平野を一望することができました。


最後に市北部の月谷町にある行道山浄因寺に向かいました。まだ4時前なのに既に暗くなり始めた山あいの鬱蒼とした森を通ると、

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道端に苔むした石像が何体か置かれていました。温和な表情です。
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胸突き八丁の参道をようやく登りつめると、断崖絶壁の上に建つ清心亭が現れました。


足利市は人口16万人程の都市ですが、室町将軍足利氏にゆかりのある歴史のある町で、午後のひと時を楽しく散策しました。


常陸風土記の丘 [ちょっと遠出]

筑波山と霞ケ浦に挟まれた丘陵地帯にある八郷(やさと)は、豊富な水資源と温暖な気候で、縄文・弥生時代から人々が生活の場としていました。常陸風土記の丘に保存された日本の住居を見ると、そんな歴史を辿ることができます。

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古代の竪穴式茅葺き住居で、発掘時に漆付きの土器、釘や瓦などが出土しており、既にかなり文明が進歩していたとみられます。

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中から見た出入口。これで高床式にしたら、案外居心地がいいかもしれません。

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岩手県南部地方と茨城県に多く見られる「曲家(まがりや)」と呼ばれる江戸時代の民家です。障子を明け放てば風通しが良く、軒が長く縁側が広い日本家屋は、真夏でも涼が取れるように良く考えられています。

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板の間にゴロンと横になれば、クーラーも要らない涼しさです。

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池には薄桃色の大賀ハスが見事に咲いていました。

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トンボが飛び交う小川の水を取り入れた田圃には、

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夕日に映える筑波山を背景にして、次第に重く実り行く稲が穂を垂れていました。
きっと古くから長く変わらない光景ですね。

阿蘇 [ちょっと遠出]

目を覚ますと空が白んで、昨夜からの雨は上がっていました。朝食まで少し時間があったので、宿から20分ほど山に入った「すずめ地獄」を見に行くことにしました。

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ブナやナラ、カシなどが茂った原生林に木漏れ日が差し、

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渓流から立ち上る水蒸気で、岩肌は苔むしています。

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林を抜けると空が開け、「すずめ地獄」からは硫黄の臭いとともに冷泉が地面からプツプツと湧き出していました。吹き出す亜硫酸ガスで小さな動物が死んでしまうこともあるので、こんな名前が付けられたそうです。


宿に戻って朝食を済ませ、鍋ヶ滝に向かいました。

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国道387号線を西に進んで東蓬莱まで来ると、こんもりとした森に囲まれたお社が目に留まりました。このお社の正式な名前は蓬莱吉見神社で、阿蘇神社に祀られている健磐龍命(たけいわたつのみこと)の妃、阿蘇都姫命(あそつひめのみこと)の父である草部吉見神(国龍命)を祀っていますが、地元の人には鉾納社(ほこのみや)という名前の方が馴染んでいるようです。


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石段を上ると、大空にまっすぐ伸びた樹齢700年の夫婦杉を両脇に構えた立派な社殿がありました。


鉾納社から道を北に入り、しばらく行くと鍋ヶ滝への下り口に着きます。昨晩の雨で滑りやすくなった急な坂道を足もとに気をつけながら下って行くと、

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川の音が次第に大きくなり、右手に見事な滝が現れました。

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水しぶきが霧のように舞う滝の横手から、深くくびれ込んで洞窟のようになった薄暗い裏側に回り込むと、激しく落ちる水のカーテン越しに鮮やかな山の緑が見えました。

鍋ヶ滝から212号線を南に下り、中原の押戸石に向かいました。ここは蔵々窯の許斐さんが是非にと薦めてくれた場所です。標高845mのなだらかな山頂に近付くと、風に乗って太鼓の音が聞こえてきました。

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若者が西アフリカの太鼓ジャンベを敲いています。20年程前マリ共和国を訪れた時聴いたことを懐かしく思い出しました。もう一人の青年に傍に置いてある楽器の名前を尋ねると、ディジュリドー(イダキ)という名前を教えてくれました。シロアリに食われて筒状になったユーカリの木から作られたディジュリドーは、オーストラリアのアボリジニに伝わる最古の管楽器と言われています。

民族楽器の話をするうちに、以前私たちが武蔵野の雑木林の中でインドベンガル地方の弦楽器エスラージの演奏を聞いた話をしたところ、奏者の向後隆さんとは知己で、ディジュリドーを一緒に演奏をしたことがあると伺って、偶然の巡り合わせに驚きました。

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彼らは私たちのためにオリジナル曲を弾いてくれました。ジャンベの独特なリズムに合わせて、循環呼吸で途切れることなく奏でられるディジュリドーの通奏音・・・遠く九重、祖母、阿蘇の連山を見渡す360度の展望が広がる草原で聞く素朴な音楽は、まるで自然と一体になったかのように、風と共に身体の中を駈け抜けて大空に消えて行きました。

山頂にはたくさんの巨石があって、古代人の祈りの場であったともいわれています。中でも最も大きい押戸石(おしどいし)には、4000年前のものとも言われる古代文字(ペトログラフ)が刻まれています。許斐さんはパワースポットだと言っていましたが、何か謎めいたロマンを感じさせる場所です。


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九州の旅も終りに近づき、午後の便に乗るべく大観峰から草千里を抜けて熊本空港に向かいました。世界一といわれる阿蘇のカルデラは広く、湧き出す清水も豊富で豊かな自然が残されています。

(注) 押戸石の学術的な考察については、熊本大学入口紀夫教授の下記記事を参照ください。
http://www.geocities.jp/tulipcities/kumamoto/oshito.html


天草から小国へ [ちょっと遠出]

天草から帰京する前に、小国町の黒川温泉に寄って一泊することにしました。少し阿蘇の周辺を散策したかったからです。

今朝は久しぶりに梅雨らしく、昨晩からの雨が降り続いています。このお天気なのであまり寄るあてもなく、10時過ぎにのんびりと家を出ました。お昼ご飯は大矢野の「天慎」で、太太がお目当てのコハダのバッテラ巻きとだご汁を頂きました。

たまたま座ったカウンター席の向かいに、この巻き物を考案した板さんがいて、由来を聞かせてもらいました。コハダはシンコ、コハダ、コノシロと名前を変える出世魚ですが、シンコの初競りがキロ8万円(本マグロより高い!!)もする高級魚なのに対し、この時期のコハダは食するに中途半端で東京などに出荷できず、地元で消費していたものを利用しようと、この巻き物を考え付いたそうです。(そうは言っても、この間魚屋で買ったやつを刺身にしたら結構美味しかったけどなぁ)

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かつら剥きの大根で大葉と一緒に巻いた〆コハダは、さっぱりした上品な味わいです。天草大王で出汁をとっただご汁も良い味でした。

コテコテの天草弁を話す板さんとの会話は、時々太太の通訳を必要としましたが、考案者であるのに「やっぱりバッテラはサバがうまかです」とか、諫早のリンガーハット一号店が開店した時のチャンポンがこれまでで断トツにうまかったとか、本渡の殆どのすし屋の仕入れ先が、私たちがいつも買いに行く近所の魚屋さんだとかなど、面白おかしく話をするうちに、あっという間に時間が経ちました。

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豊肥線の線路に沿って阿蘇外輪山に囲まれた台地を東に向かうと、千年の昔から三座の神を祀る阿蘇神社があります。社殿は天保六年(1835)から20年の歳月をかけて再建されたもので、二層の楼門と本殿に飾られた太いしめ縄には圧倒されます。

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つづら折りの坂道を城山まで上ってやまなみハイウェイに出ましたが、雨に煙って視界はほとんど開けませんでした。

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日が沈んで黒川温泉の宿に着く頃には、雷とともに大粒の激しい雨になりました。

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宿は落ち着いた雰囲気で、渡り廊下に置かれたグミの鉢植えや

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さりげなく掛けられた星野富弘さんの絵など、心配りが感じられました。

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宿の内湯は檜造りです。実は天草に着いてすぐ、近くの漁港のテトラポットの上で写真を撮っている時に足を踏み外して、顔面と左手首それに右ひざをひどく擦りむき、お医者さんからは濡らしてはいけないと言われていたので、黒川温泉では酒と料理だけで我慢するかと半ば諦めていたのですが、ちょうど良い具合に入れる内湯があったので、芯から温まることができました。

宿の人の話では、この雨も明日には上がるとのことなので、阿蘇の展望が楽しみです。

本渡のお寺とお宮さん [ちょっと遠出]

天草には明徳寺、東光寺、崇圓寺などの禅寺を初めとして立派なお寺がありますが、その背景には島原・天草の乱以後、民心の安定とキリスト教から仏教への帰依を目的として、幕府が力を入れたという歴史があります。

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本戸馬場から西に入った突き当りの急な石段を上ると、重厚な山門を構えた曹洞宗向陽山「明徳寺」があります。このお寺は太太の実家の菩提寺で、ちょうど義父の月命日だったのでお参りをしました。東に明るく開けた墓地からは、本渡市街を通して島原湾を望むことができます。

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明徳寺から少し南に下って船之尾の商店街を裏手に入ると、緑の木立に囲まれた諏訪神社があります。元冦来襲の時に神風が吹いたのはよく知られていますが、水軍を率いて出陣した本渡城主は、諏訪大明神の御加護で風神が守ってくれたとして、弘安六年(1283)に信州諏訪の本社から分霊してこのお社を立てました。

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昔は毎月の恵比寿様の縁日に夜店が立ち並んで賑わったそうすが、久し振りに訪れた太太は「小学生の頃、親に買い食いは駄目と言われていたので、友達とこっそり裏の鳥居の陰で綿菓子を食べたのよ」と懐かしそうでした。

松栄山東向寺は本渡の中心部から少し離れた本町新休にある禅宗のお寺です。

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紫陽花の咲く門をくぐると、

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堂々たる本堂が現れました。境内に敷き詰められた芝生の一部が三角形に擦り減って、露出した土の上にバットが転がっていました。つい今しがたまで子供たちが野球をしていたようですが、

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少年たちは本堂と庫院をつなぐ石のたたきの上に座り込んで、何やら真剣な面持ちで額を寄せ合っていました。「何ばしよっと?」と聞くと、お互いに持ち寄った合体マシンのカードを見比べて、色々研究をしているとのことでした。

私たちが子供の頃、お寺や神社は格好の遊び場所で、暗くなるまで遊び呆けて良く親に叱られたものですが、ここにはそんな風景が今も残っています。

さて話は変わって、チャンポンのお話です。チャンポンといえば長崎が有名ですが、距離が近いだけあって天草にもかなりたくさんのお店があります。私は牛深漁港のものが美味しいと思うのですが、太太が今まで天草で食べた中で一番美味しいというお店を教えてくれるというので楽しみに出かけました。ところが出かけた二日とも暖簾が掛かっていないので不審に思い、引き戸の半分開いた玄関口から声を掛けると、中にいたおばあさんが「歳ばとって身体のきつうなったけん、店はやめたとです。せっかく来てもろうたとに、申し訳なかですね」とのことでした。う~ん、残念!!

ということで、本渡港の「みよし食堂」へ。ここはタクシーの運ちゃんたちが常連で、お客さんに「どっかチャンポンのおいしいお店ない?」と聞かれた時に教える店でもあります。

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麺以上に具が山盛りになったボリュームたっぷりのチャンポンです。ちなみに、こちらも以前の老夫婦はおらず、既に代替わりしていました。

街中を歩いていると、あちらこちらで「あらぁ、帰って来とったと?」と、幼い頃お世話になった近所のおじちゃん、おばちゃんたちや友だちに「ちゃん」付けで呼ばれる太太を見ていると、故郷があるのはいいものだなあと思います。

鬼池から雲仙へ [ちょっと遠出]

天草はこのところほとんど雨が降らず、梅雨だというのに乾燥注意報が出ています。利尻島では暖流の海に生育する海藻がはびこっているというし、やはり気候に異変が起きているようです。

とはいってもせっかくのお天気なので、対岸の雲仙に行くことにしました。天草は熊本県に属しますが、天草灘に面する苓北町は長崎県の島原と、下島南端の牛深は鹿児島県の長島と目と鼻の先にあり、かつて江戸時代には肥後藩から管轄外の地として冷遇を受けたのも頷けます。

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鬼池から対岸の口之津までは約7km、フェリーに乗るれば30分で着きます。口之津から島原半島の西海岸を北上し、小浜から七曲の坂を上って雲仙に向かいました。

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仁田峠に着くと、目の前に普賢岳に覆いかぶさるような平成新山の巨大な溶岩ドームが現れました。

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1991年の噴火の際に火砕流によって麓の町は深刻な被害を受けましたが、島原湾まで長く尾を引く裾野が当時の状況を形にとどめています。

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時に厳しい爪痕を残す火山も、一方では歴史ある温泉地として人々に親しまれてきました。温泉神社の裏手から矢岳の麓に広がる雲仙地獄では、あちこちで地面がぐつぐつと沸き立ち、あたり一面に硫黄のにおいが立ち込めていました。


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山を下り、再び鬼池に向かって口之津の港を発つ頃には夕陽も水平線近くに傾き、

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天草の通詞島とそのむこうの富岡の半島が、遠く夕暮れの靄の中に浮かびあがりました。

明治時代に「からゆきさん」と呼ばれた天草の貧しい乙女たちが、鬼池から早崎瀬戸を渡って島原半島の口之津へ行き、そこから外洋貨物船に乗せられて、遠くインドシナやシベリアまで身を売られた歴史があります。鬼池と口之津は対岸が見えるほんの7kmほどの距離ですが、潮の流れが急な早崎瀬戸を渡れば、故郷は再び土を踏むことの許されない遠い世界でした。
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彼女たちがどんな気持ちでこの景色を眺めたのかは知る由もなく、天草灘は沈む夕陽を受けてただただ金色に光り輝いていました。

天草 [ちょっと遠出]

一年振りに太太の生まれ故郷天草に帰りました。家からぶらぶらと歩いて2,3分の所に小さな漁港があります。

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このあたりでは小舟での沿岸漁業がほとんどです。早朝港に行くとおばあさんが手押しポンプでドラム缶から船に燃料を送り、お爺さんが漁具やエンジンの点検をするといった光景を見かけます。

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港はいたってのんびり。マストにとまるトンビや、

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魚の臭いがついた網を嗅ぎまわる子猫・・・


この近くは養殖の筏がなく、海が不自然に肥えていないので、良いアジやひかりものが取れるのですが、

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この時期は何と言っても「かなぎ(きびなご)」が旬で、朝港に上がったやつを、

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指で割いてヌタでいただくと最高です。

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夕方には沈む夕日に映えた雲仙普賢岳が、対岸にそのシルエットを見せてくれます。

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おや、君はまだそこにいましたか。日が沈むから、そろそろおうちに帰らなくっちゃね。

初夏の高原 [ちょっと遠出]

ちょっと用事があって、今週も八ヶ岳南麓に出かけました。週末の高速道路一律1000円の導入で渋滞するかと思って少し早く家を出たのですが、案外車が少なく予定の時間より2時間も早く着いたので、サクランボ狩りをしてみようということになりました。
電話をかけると驚いたことに、まだ収穫には早目だというのに予約は既に一杯で、残念ながら飛び込みの受け付けはしないとのことでしたが、見事な枝なりの実を見たいのですがとお願いすると、係りの人が快く果樹園を案内してくれました。
さくらんぼといえば山形が有名で、日本の生産量の7割を占めていますが、山梨県も青森に次いで第三位の生産量です。サクランボはキウイなどと同じく異なる種類で交配しなければ果実が実らない他家受精の果樹で、ここの果樹園でも佐藤錦と高砂を交互に受粉しています。

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地面と平行に伸ばした枝いっぱいに、見事な房が色付いていました。

枝の剪定、摘果など、ひとつひとつ手間をかけて実を育てる苦労を聞くと、店先で目をむくほどの値段が付けられているのもむべなるかなと思われます。

午前中に用事が終わったので、昼食の後清里まで脚を伸ばしました。お目当てはアンティーク・オルゴールを含む自動演奏楽器の演奏が聴ける”HALL OF HALLS”です。

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ホールに入ると、大小様々なオルゴールが並べられていました。これらが演奏できる状態で保存されているのは素晴らしいことですね。

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これは19世紀末にドイツ人によって開発されたディスク・オルゴール。私たちに馴染みのあるシリンダー・オルゴールと違って、裏側に突起がつけられたディスクが回転し、その突起がスター・ホィールを押し回して櫛の歯を弾くというもので、LPレコードのようにディスクを換えることで色々な曲を聴くことができます。

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木箱が奏でる暖かい音に、皆引き込まれるように聴き入っていました。

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一方こちらはリードペーパーの穴が駆動系を制御してペダルを動かすパイプオルガンです。演奏が始まるとまるで吹奏楽団がすぐそばで弾いているような大音響の臨場感に、思わず体がのけ反ってしまいそうでした。

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高原の初夏は清々しく、若駒の毛並みもつややかで、

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草原は色鮮やかに咲いた花々で埋め尽くされていました。

八郷の西光院 [ちょっと遠出]

日本の里百選に選ばれた茨城県八郷の町に、天台宗の峰寺山西光院があります。ここは今から約1200年前の平安初期に開山されたお寺で、山腹の岩肌にしがみつくように建てられた本堂を支える懸造(かけづくり)の舞台があることから、「関東の清水寺」と呼ばれています。

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うぐいすが啼く緑深い参道を歩いて行くと、立派なクスノキがまばゆいばかりの新緑をつけた枝を空いっぱいに広げていました。

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本堂は岩盤の上に組み上げられた木を支えに建っています。現在の建物は220年前に再建されたものを修復していますが、厳しい風雪に曝されて良く耐えていると感心します。

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高所恐怖症の太太は本堂の壁際にへばりついていましたが、舞台からの展望は素晴らしく、関東平野の北端から始まる山並みを背景に、黄金色に輝く麦畑と若緑の青田が模様を織りなす八郷の田園風景が一望に見渡せました。

雪解け - 雪融時期 [ちょっと遠出]

目が覚めると空が晴れ渡り、清々しい風が吹いています。
「ちょっとドライブでも」と、太太を誘って奥利根に出かけました。

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武尊、赤城、皇海など、利根川源流山系からの雪解け水を集めた片品川は

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吹割の滝となって、

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轟々たる音を立てて川底を割り、

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時に静かな碧の淵を作るかと思えば

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再び鱒飛の滝となって、新緑の谷をなだれ落ちて行きます。

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山に降る慈雨はシラビソ、ミズナラ、ブナ、カラマツなどの緑を育み、

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その落ち葉や腐葉土が魚を養い、

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山に蓄えられた水は季節を通して田畑を潤し、実りをもたらしてくれます。

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私たちはそんな自然の営に、畏敬の念を抱きます。

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山の恵み、水の恵み、季節の恵み・・・次の世代にきちんと残しましょう。


早上醒來時候天空放晴而風很舒服。約太太一起去欣賞初夏的風景。
集利根川源流山系水的片品川做成吹割瀑布、
跟轟隆的聲音一起把河底分開在新緑的山谷裡流下去。
山上降下的慈雨養育各種濶葉樹、其落葉或腐葉土再養育河魚。
在山裡留保的水一年四季澆灌田地給我們豐収。
把山的恩賜、水的恩賜、季節的恩賜・・・我們需要継承給下次的世代。


伊香保 [ちょっと遠出]

母の三回忌の法要の後、家族と伊香保温泉に出かけました。

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ちょうどお雛様の時期なので、温泉旅館には綺麗なお雛様が飾り付けられていました。

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伊香保から榛名湖に抜ける高根台からは、冠雪の谷川岳を遠く望んで、伊香保の町が雲海に覆われていました。

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厳冬期にはワカサギ釣りでにぎわう榛名湖も、春の訪れとともに氷が溶けはじめ、ひっそりと静まり返っていました。

媽媽的第三次忌辰後、到伊香保温泉跟家人一起去。
因為桃花節快要來、在旅館装飾着美麗的偶人。
向榛名湖的路上、従高根台看到雲海裡的伊香保温泉郷。
冬天的風景也漂亮。

甲斐路 [ちょっと遠出]

今日は8年前に東京から八ヶ岳南麓に移り住んで生活をしている知人を訪ねました。都会を離れた生活の先輩に、色々と聞きたいことがあったからです。

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大陸の高気圧が張り出して「八つおろし」の北風がまともに吹きつけましたが、畑からは冠雪した八ヶ岳の展望が見事に広がりました。

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夕日が西に沈んで地蔵岳のオベリスクがシルエットに浮かぶ頃には、気温は一気に零下になりました。

何でも簡単に手に入る都会と比べると、すべてに自助努力が必要ですが、そうやって生活をする逞しさもまた大切なことのように思います。

翌朝は昇仙峡に足を延ばしました。

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葉の落ちた木々の枝を通して渓流が見える遊歩道を歩いていると、寒さで身が縮むようですが、自然の景観に圧倒されます。

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巨岩が天を突きあげる覚円峰を過ぎ、

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仙娥滝にやって来ると、吹き上げる水しぶきに虹が映っていました。

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滝の上に上ると滝口は意外に穏やかでしたが、水しぶきの跳ねる河原にはつららが面白い造形を見せてくれました。

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甲府の町に近づいてくると、甲斐駒ケ岳の雄姿が現れました。

夏には度々訪れた山々ですが、冬景色の甲斐路もまた良いものです。

冬の那須高原 [ちょっと遠出]

今年も新年早々、先輩の住む那須へご挨拶に。久々の語らいに一夜明けた早朝の散歩。

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雪が吹き溜まった谷間のせせらぎが輝き

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自然がつくった偶然のいたずらに思わず心がなごみます。

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帰路、那須塩原の駅から、雪を頂いた茶臼、朝日の那須連峰が見渡せました。


在初四到先輩住的那須跟太太一起去。好久后見面他們喝酒聊天的第二天早上、我們散歩的時候発見自然做的偶然。回来時候従高鐡站看得到被雪覆蓋的那須連峰。

中華街の媽祖廟 [ちょっと遠出]

台湾から帰国して、久しぶりに家族とともに横浜で食事をした後、

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山手本通りにある

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ブラフ18番館、

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外交官の家、

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ベーリック・ホールなどを見学しながら、坂道を下って中華街へ。

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夕暮れの街はぐっと冷え込み、イルミネーションに飾られた元町通りを、人々が肩を寄せ合って通り過ぎます。

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中華街にある媽祖廟は提灯で煌々と照らし出されてひと際輝いていましたが、厳かに飾られた廟に入るにはお金を払わねばならず、家族連れでにぎわう「お線香モウモウ」の台湾の庶民的な廟とは違ってちょっと敷居が高い気がしました。


従台湾回来日本後、跟家人一起好久去横浜中華街吃飯。欣賞有歴史的西式建築、逛街元町通。因為空気很冷所以人們並肩走得比較快。在中華街的媽祖廟被燈光照得亮堂。為了進入廟大家都需要付銭是跟台湾差異、我感覚到不好意思登門。
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